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2006年11月17日 (金)

視覚と映像の関係に否を唱えてみる

※ミクシィ日記から防備録として転載


 どもー、こんばんは、狼煙です。

 今日の日記は今までのモノとは毛色が違うので
 興味のない方はとことん興味がない内容です。

 しかも、長いです。
 しかもしかも、私はこの手の知識を全く持っていないので、
 全てシロウトである私の仮定です。
 これらに詳しい方や、
 ずっと前からこういうことを考えていた方から見ると非常に幼稚な内容なので
 それはそれで読まれてしまうと恥ずかしいです。

 とまぁ、前置きしまして本文は以下から!

視覚と映像 聴覚と音

 五感のうち、視覚は映像を、聴覚は音を得る、と一般に言われるが、それは本当だろうか。

 私は否、と考える。
 少なくとも、『視覚=映像』の公式は否、と。

 具体的には眼で見ているのは映像ではない、という考え。

 もうひとつ、人が持つ映像のスクリーンは何枚あるのか、それも実は相当に少ないだろうと思う。


・『視覚=映像』の否
 当り前だが、人間の眼球は実はかなりファジーな装置である。

 まず眼球の能力。
 人の眼球がはっきりと像を結ぶのは、視界の中心から放射線状に拡がる極狭い面積でしかない。
 これは、簡単に確認できる。
  1、まず、視点を一箇所に固定する。
  2、視点を固定したままで目の端まで意識をもっていく。
 視点を正面に向けた状態では目の端のものははっきり見えないはずだ。
 では、全く同じ位置から頭を動かさず今度は視点を移動してさっき見た物を見て欲しい。
 今度は見えるはずだ。
 この事から人間の眼球の焦点面積が普段意識しないだけで本当はかなり狭いとわかる。

 では、この程度の面積しか明確ではないはずなのにそれを何故意識しないのか。
 これにひとつ仮設がある。
『パノラマ写真またはジグソーパズル的視覚』
 視覚から得た光情報は脳内に展開され、目を走らせることで全体を綺麗に捉える。
 その上で、最も重要と思われる部分にのみ眼球の有効面積を使う。
 しかし、曖昧なそれ以外の不鮮明な部分も動きを感知することは可能であり、それらの情報は常に脳内に蓄えられた情報と組み合わされる。
 記憶された光情報と現在の情報を重ね合わせることにより不鮮明であるはずの部位までも鮮明に見えているかのように感じる。
 つまり、人が感じている世界はパノラマ写真のようなモノではないか、と。
 パノラマ写真は水平方向に順々撮影していき、撮影後に左右をつなぎ合わせていく。
 これはそれぞれの画に時間的な差違があるということ。
 繋がって見えても時間は同じくしていないということ。
 人に限らず、人の眼と同じ構造を持つ生物は全てこれを行っているのではないだろうか。

『動体知覚と空間把握』
 生物が生き残るために必要な能力、おそらく視覚というモノの根元はこれだろうと考える。
 動くモノを捉える能力は極めて重要である。
 たとえばカエルなどは静止物を見ることが出来ない、と聞いたことがある。
 動くモノしかみえない、というのは視覚内にあった変化の差分しか見えない、という意味だ。
 カエルが生き残るためには身を守る必要と、獲物を捕らえる必要があるわけだが、このどちらも変化の差分を得るだけで行える。
 空間として動体を知覚できれば生きられる。
 機能が最小限であることで体積がコンパクトですみ、回路としても無駄が少ないため反応速度は多くの処理を行っている人の視覚よりも速い。これは個体の全体能力に関わりなく、神経の伝達速度に上限があるためである。
 仮に、生物が光を捉える機関とそれを処理するモノの総体『視覚』を得た理由(あるいは能力を利用できた場面)が『動体知覚』にあるとすると、最初に挙げた『視覚=映像』という括りに疑問が出る。
 動体知覚は映像とはイコールではないからだ。
 この動体知覚を発展させたモノが現在、人やその他の生物が持つ『視覚』だとするなら、その本質は『映像を得る』という今の常識に直結しない。
 さらに、もし得られる情報が物体の空間把握だけだったしても問題はないだろう。
 全ての物体に色がなく、全てが灰色の世界だったしても、どこにどのような物があり、どのように動いているかさえ知覚できれば、生きていく上で識字の問題以外にさして困難はないだろうと思われる。(これは人の視覚が可視光の受容を元にしているため識字などの問題が生まれるためであり、それ以外の媒体から空間把握していたなら関係のない問題であったはず)

『映像スクリーン』(再び断っておくが、私はこの手の知識がない。であるから、これは私の造語)
 人が同時に処理できる『(仮に)映像情報』はどれほどあるだろうか。
 たとえば、全く関係のない映像を同時に幾つイメージできるか、ということだ。
 映画などを回想することはそれほど難なく出来ると思うが、では、同時に別の映画を二本、三本と同時に脳内で流せるか。
 おそらく、個人差はあるだろうがそれほど多くはないはずだ。(私の場合はできても一本が限界。二本は無理だった)
 では、目の前でなんかしらの動画、TV放送や映画などを観ながら、それをしっかりと認識しつづけたままで、脳内に別の動画を再生できるか。
 これも難しいだろうと思う。
 TVを観ている間は回想がお留守になり、回想している最中はTVがお留守になるのではないだろうか。明確なイメージをしようとすればするほどこれは顕著になる。
 このことからわかるのは、人の脳内で同時に展開できる『映像』は案外少ない、という点である。
 さらに、これは自分でも不確かな仮定ではあるが、現在、人が『映像』と呼び慣れ親しんでいるモノが実は人の脳構造と直結していないという事実なのではないだろうか。詳しくは以下。

『空間把握と映像』
 上で書いたように人の脳は『映像』の処理にはついてはそれほど能力が高くないと思われる。
 では、同時に、というのがそもそも無理なのか。
 どんなモノでも同時にイメージすることは不可能なのか。
 これは次の実験で証明できる。
  1、よく知っている人物ふたりを思い浮かべて欲しい。
  2、では、そのふたりを脳内で握手させてみて欲しい。
 これはわりかし楽だったはずだ。
 つまり、これからわかることは、『同時に別のモノをイメージすることが可能』であるにもかかわらず『同時に複数の“映像”を操るのが困難』であるということだ。
 では、なぜ、人物をイメージすることが出来るのか。
 それは、対象物の造形をよく知っているからだ。
 ではさらに、なぜ対象物の造形をよく知っているのか。
 それは、その対象物が自分と密接に関係を持っているからである。
 しかし、これはつまり『自分と密接に関係のある映像であれば同時にイメージ可能』である、とも言える。おそらく、それらに深く関わりのある職や趣味を有している人にこれが当てはまる。
 だが、多くの人間には困難な処理であろうことから、それらの人たちが持つ秀でた能力と言えるだろう。
 では、多くの人にとって映像をイメージすることが困難なのはなぜなのか。
 これについては、本当は『自分と密接に関係のある事象を“映像”として処理していないから』なのではないかと考えられる。
 先程の握手のイメージに戻ってみると、これがわかる。
 握手をしているふたりを『映像』としてイメージしたのか、『空間』としてイメージしたのか。
 ここで『映像』というのはつまり二次元的なモノを指し、『空間』とは三次元的なイメージを指す。
 さて、どちらだったのか。
 これはほぼ全ての人が『空間』だったのではないだろうか。
 もし、そうだったとすると、人のイメージ力は『映像再生』ではなく『空間把握』により高い能力を発揮していると言える。

『視覚≠映像』
 脳内で、視覚に関する処理を行う部位は非常に大きい、と以前科学番組で観た。
 とするなら、それら多くの処理を日夜行い、十分に訓練をされているはずの脳が、一般に『視覚から得ているのは“映像”』といわれているにも関わらず、その『映像』を十分に処理できないのはおかしい。
 ここで、前に戻ると、本来生物として生きるために彼らに必要だったのは、平面としての『映像知覚』ではなく、三次元体に動きを加えた総体である『動体知覚』にあった。
 それらを総合的に考えると、『視覚=映像』という理解にアラが見えてくるわけだ。
 なぜ、『視覚=映像』という認識が生まれてきたのか、それは簡単なことで、『自分の観たモノを表現する最も近しい方法が“画を描いて示す”だったから』これにつきるのだろう。
 物体を正確に表現するなら、そのまま立体物として表現するのが確実なのだろうが、あまりに手間がかかりすぎる上に、それを表現した頃には必要がなくなっている可能性が高い。
 しかし、書くモノ(ペンなど)と書かれるモノ(紙など)があれば書き手の腕に左右されるものの立体造形を行うよりも素早く表現できる。さらに、現代の漫画などではあらゆる手法で動きすらも表現することが可能であり、さらにさらに、映画やTVの出現で画を動かすことまでできるようになった。
「私はこういう景色を見た」「こういうモノを見た」と表現の方法として『映像』が確立されるうちに、いつしか「私はこういう『映像』を見ている」と意識が変化していったのだろうと思われる。
 実際に眼球から得ているのは単に光情報であり、それを視覚として確立しているのは眼ではなく脳内にあるスクリーンをも含めた総体としての『視覚システム』だと言える。

『ハットリ君たち』
 かなり前に、うろ覚えのハットリ君を描かせる、というような企画がどこかであった気がする。(ハットリ君ではなかったかもしれない)
 この時集まった『ハットリ君たち』はどれも微妙に違ったり、全く違ったりしていた。
 これはつまり、藤子先生の『ハットリ君』をパッと見て「ハットリ君だ!」と理解できても、自分では映像として完全に記憶されていない証拠である。
 視覚を『映像を得るための感覚』、とするなら、これはおかしい。
 映像を得たのに、別の形で格納されていることになる。
 とすれば、そもそも、『“映像”として得られているわけではないためそれを格納する形態も“映像ではない”』とした方が自然に思える。

『真の仮想体験』
(間を大幅にはしょって)つまるところ、人に完全な仮想体験(映画もドラマも漫画も音楽も仮想体験の一種とするなら)を与えるには人の五感または、第六感まで含めた全ての感覚を疑似入出力することでしか得られない。
 そのため、完全にこの世界と物理的な互換を持つ仮想世界を構築できたなら、それは監視者の脳内で再現されるモノであり、「仮想世界の映像を出します」といって簡単に平面ディスプレイに映像化できるモノではないはずだ。


 長々とどうもです。
 まるで中学生の妄想ですが、こんなことを書いたのは今書いている原稿に関係があるためでした。
 ちょっと頭の整理をつけるために明文化した感じです。
 もう一回書いておきますけど、
 私は完全に、どうしようもなく、とことんシロウトなので、
「こんなこといい年の大人が考えてるなんてガキねぇ〜」と思われた方は正解です。
 はい、すみません、頭の中はオコチャマなんです。
 さらにちなみに、攻殻機動隊はまだ漫画止まりでアニメは未完賞です。
 この辺描かれてるんじゃないかなぁ、とこれを書いてから思ったので一応付け足しておきます。


※上の続き


『動体知覚を祖とする名残』
 動体知覚を人の眼もそれを始まりとすると思われる。
 これも簡単に確認できるので興味がある方はやってみて欲しい。
  1、視界の中に動くものがない状況を作る。
  2、身体を安定した場所に固定し、頭も動かさず、ただ一点のみを凝視する。
  3、視界が暗転し始め、やがて全ての視覚が消える。
 およそ数秒から数十秒程度で視界の変化が始まるはずだ。
 これはつまり、カエルの例と同じく、人の視覚に関しても動体知覚、すわち、光情報の差分を元に像を得ている証拠である。
 視点を動かさず、周囲にも全く変化がない状況が続くというのはカエルにとって周囲に動体がない状況と全く同じだといえる。
 このことから、人の視覚システムの根源が『動体知覚』にあると仮定できるわけだ。
『動体知覚』においてカエルと人との違いは、ただ、どれだけの差分情報を確保できるか、それのみといえる。

 上にも書いたとおり、前日記の追加分です。
 これも簡単に試せるので、暗くもないのにどんどん世界が暗転していく様を体験してください。
 なかなかに面白い現象ですよ。
 身体の神秘、是非ともお試しあれ。

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